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遠い記憶のなか
2025.08.11
( Nordic Journal )

東京とフィンランドの間には6時間の空白が存在していて、たとえばここが23時ならばあちらは17時。フィンランドの時間は、東京の夜を追いかけるようにして進んでいる。
いま、目の前にあるこの夜と、遠くの誰かが生きている夕暮れが同時に進行しているという事実を、時々疑いたくなる。それは、とても不思議なこと。地球が丸いから、あるいは天体が回転しているからだとしても、そんなの大きすぎて速すぎてよくわかんないや、と思ってしまう。目で見えている以上のことを、想像してみたり見せかけの知識で補うことは簡単だけど、それは時として不確かだ。
西の夜空を眺めてみても、その先にフィンランドの夕焼け空は見えない。途切れることのない空のその先に、いったい何があるのだろうか。



ヘルシンキの沖に浮かぶスオメンリンナ島には、港と街をつなぐ小さなトンネルがある。
世界のあらゆるトンネルは、世界の境界をゆるやかに定義している。あちらが生まれて、こちらが生まれる。



過去と今という離れた場所は、「想像」という不永続的なトンネルを介して繋がれる。過ぎし時間は戻ってこないけれど、それを想像をしているわずかな間だけは、こちらとあちらの世界は曖昧に混ざり合う。
思い出について考えている時、それが美しくも時に悲しく感じられるのは、ある出来事が確かに存在していたからであり、同時に、それがすでに消えてしまったと知っているから。



とおく離れた場所にある古い記憶が過去であることに変わりはないけれど、その未来を、わたしは知っている。
「それは=かつて=あった(ça a été)」
『明るい部屋:写真についての覚書』 / ロラン・バルト / 1997年)





写真はしばしば重要な瞬間を切り取るものとして扱われたりするが、本当は終わることのない世界の小さな断片と思い出なのだ。
ソール・ライター

思い出が、本当の意味で過去になることがあるとしたら、それは、その日のことを忘れてしまったときだと思う。思い出は、思い出すたびに今と重なり、それぞれ違った意味を上書きしてゆく。
写真は、今とかつてを繋いでくれるトンネルのようだ。
遠い記憶のなか
( Nordic Journal )
2025.08.11
Text & Photography : lumikka